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夏目漱石『草枕』

漱石の『草枕』は、初期の傑作とされるがどうも読みにくい。〈智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい〉という冒頭の一文がとくに有名だが、さて、その先に進み得た読者はどれほどいることか。僕は漱石の作品はあらかた読んでいる。それでも『草枕』だけは中途で放り出したままとなっていた。『吾輩は猫である』のような軽みもないし、『それから』『明暗』のように序盤から読者を引き込む物語性が打ち出されるわけでもない。主人公の絵描きの問わず語りに、それこそ“智に働きすぎて角が立つ”のである。

改めて挑戦してみようと思ったのは、少し前に観たNHKの「日曜美術館」がきっかけだった。「絵で読み解く夏目漱石」と題された回で、そこで『草枕』にミレーの傑作『オフィーリア』が登場することを知った。オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』に登場するヒロイン。主人公ハムレットの恋人だが、復讐のために佯狂となったハムレットに無下にされたあげく、父をも殺され、錯乱して川に落ちて溺死してしまう。ミレーの絵は、オフィーリアが溺死していく姿を描いたものだ。

『草枕』の絵描きの頭の中には、たえずこのオフィーリアの姿が浮かぶ。自分もミレーのような絵を描いてみたいと思うが、肝心の女の顔が浮かばない。

〈流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以って、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。〉

そんな折りに、絵描きは一人の女と出会う。那美という女だが、彼女は出戻りで、しかも周りからは「キ印」などと呼ばれている。ときに突拍子もない行動に出るからだが、しかし真の彼女はいたって聡明で美しい女性である。そして妖艶で、ときに男をどきりとさせる。那美の裸身の描写は、おそらくこの物語の肝となる場面だろう。

〈頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分かれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いを後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ〉

しかしながら、それでも那美の表情には何かが足りないと絵描きは思う。それは「憐れ」だという結論になり、那美はラストシーンでようやくその表情を見せる。熊本の温泉場には日本の原風景があり、おそらく漱石は、日本ならではの「オフィーリア」を描くには何が必要かをこの『草枕』で論じようとしたのだろう。

この『草枕』を熱烈に愛好する人物がいて、それが先頃引退表明した宮崎駿である。半藤一利との対談『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』では序盤から『草枕』への思いを熱く語っていて、描きたくとも描けないとまで言っている。これはなにも漱石の孫娘を妻とする半藤へのリップサービスではないだろう。宮崎が描く那美を、僕は観てみたい。
今余が面前に娉※(「女+亭」、第3水準1-15-85)ひょうていと現われたる姿には、一塵もこの俗埃ぞくあいの眼に遮さえぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏まとえる衣装いしょうを脱ぎ捨てたる様さまと云えばすでに人界にんがいに堕在だざいする。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代かみよの姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。
室を埋うずむる湯煙は、埋めつくしたる後あとから、絶えず湧わき上がる。春の夜よの灯ひを半透明に崩くずし拡げて、部屋一面の虹霓にじの世界が濃こまやかに揺れるなかに、朦朧もうろうと、黒きかとも思わるるほどの髪を暈ぼかして、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓りんかくを見よ。
頸筋くびすじを軽かろく内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分わかれるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑なめらかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いきおいを後うしろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾かたむく。逆ぎゃくに受くる膝頭ひざがしらのこのたびは、立て直して、長きうねりの踵かかとにつく頃、平ひらたき足が、すべての葛藤かっとうを、二枚の蹠あしのうらに安々と始末する。世の中にこれほど錯雑さくざつした配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔やわらかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛れいふんのなかに髣髴ほうふつとして、十分じゅうぶんの美を奥床おくゆかしくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗へんりんを溌墨淋漓はつぼくりんりの間あいだに点じて、※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)竜きゅうりょうの怪かいを、楮毫ちょごうのほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)めいばくなる調子とを具そなえている。六々三十六鱗りんを丁寧に描きたる竜りゅうの、滑稽こっけいに落つるが事実ならば、赤裸々せきららの肉を浄洒々じょうしゃしゃに眺めぬうちに神往の余韻よいんはある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂かつらの都みやこを逃れた月界げっかいの嫦娥じょうがが、彩虹にじの追手おってに取り囲まれて、しばらく躊躇ちゅうちょする姿と眺ながめた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥じょうがが、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那せつなに、緑の髪は、波を切る霊亀れいきの尾のごとくに風を起して、莽ぼうと靡なびいた。渦捲うずまく煙りを劈つんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向むこうへ遠退とおのく。余はがぶりと湯を呑のんだまま槽ふねの中に突立つったつ。驚いた波が、胸へあたる。縁ふちを越す湯泉ゆの音がさあさあと鳴る。

 
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装いしょうも髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然こつぜんと出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩くずす。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗きれいに立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧もうろうと胸の底に残って、棕梠箒しゅろぼうきで煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳ひく彗星すいせいの何となく妙な気になる。
どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択えらんだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以って、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。