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池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

僕は特定の宗教を信じるものではない。それでも「論語」や「聖書」に惹かれるのは、それらが強烈な物語性を含むからだ。いや、それらは物語そのものといっていい。「論語」は孔子のルサンチマンの現れであると以前に書いたが、聖書の場合も同様で、旧約はユダヤ人の苦難の歴史であるし、新約はイエスの受難の物語である。いずれもそこに悲喜こもごものドラマが展開されるわけで、そのストーリーが読む者の心を打つ。“Book of Books”という言葉通り、読書好きにとってこれほど読み応えのある本はない。信仰心を持つ人にとっては、不遜に感じられるかもしれないけれども。

とはいえ、独学による俄か勉強のそしりは免れない。さすがに難物なので(最難関の書物だ)、読書の指針となるものが必要である。僕の場合は宗教としてではなく、テキストとしての聖書を知りたいわけだから、その目的に合ったガイドブックが欲しい。宗教論で僕が今参考にしているのは佐藤優氏の著作で(社会時評関連の著作は信用ならないけれど)、彼が神学の入門書として挙げていたのがマクグラスの『キリスト教神学入門』(教文館)。生物学者でもあるマクグラスのこの本は、英語圏はもちろん、アジア圏でも神学の教科書として用いられているという。もう一冊が田川建三の『書物としての新約聖書』(勁草書房)。田川は、ギリシャ語原文からの新約聖書の翻訳を手掛けている聖書学者。彼の文章はかなり癖はあるし、批判もあるのだけれども、歯に衣着せぬ論調が僕は好きだ。

では旧約聖書について、初学者に分かりやすく説いたものはないだろうか? そんなときに出会ったのが、池澤夏樹の『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』である。表紙には池澤の名前しか載っていないが、じつは主役は池澤ではない。この本は、秋吉輝雄という旧約聖書の研究者との対談である。いや、対談というよりも、池澤によるインタビューといったほうが近い。秋吉は池澤の父・福永武彦の母方の従弟にあたる。福永の母親の兄の次男。といっても、池澤とは6つしか違わない。父親との縁は薄かった池澤だが、秋吉との親交は18歳の頃から続いていたとのことである(残念ながら、秋吉は2011年に他界した)。

「聖書」とあるが、もっぱら旧約聖書の話が多いから、この本は「ユダヤとはなにか?」という話になる。国を持たず、血縁・地縁だけのつながりにも依らない、ときには時間にも縛られないユダヤのひとびとをどう定義するのか。現在に至っても明確な答えは出ていない。とりわけ、島国に暮らす日本人にはわかりにくい。意識はしていないけれども、島国である日本には海という明確な国境線がある。僕たちは四季という一定した時間のサイクルの中で生きている。一方で砂漠には国境線も暦もない。畢竟、そこで暮らす民たちと、僕たちとでは時間の概念が異なってくる。ユダヤ人にとって〈時間はただ一方に流れるものではない。すべてが並置されて過去、現在が目の前に現在する、並置される〉と池澤はいう。そしてそれが〈未来にまで持ち越されている〉と。

聖書には矛盾が多い。でもそれはもともと人知の及ばぬところであるし、持ち越された未来だから、いずれ人間にも理解できる日が来るだろう。旧約聖書にはそんな鷹揚さ、懐の深さがある。時間は過去から未来への一方向にしか進まないものと、僕らは考えてしまいがちだけれども、旧約の世界ではその時間の概念は通用しない。矛盾を矛盾のままに提示できるのが文学だと、池澤は以前から言っている。聖書もまさにその通りで、神の所業は矛盾に満ちている。だからこそ強烈な物語性を孕むし、人をひきつけてやまない求心力を持つ。それともうひとつ、僕が強く惹かれるのは、それらが口伝えの物語である点だ。旧約聖書は、もともとイスラエル部族間に口伝として伝わる様々な物語を巻物に書き写したものである。ユダヤ教ではこれを「律法(トーラー)」と呼ぶが、原義は「朗読されるもの」という意味。ひとつの物語を共有して、朗唱する人々の姿を想像してみる。とても美しい情景だと思う。