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サン=テグジュペリ『星の王子さま』

月一回、哲学教室に通っている。「教室」といっても、有志による集いだから堅苦しいものではない。大学で哲学を教えていらっしゃる先生をお招きして、個人宅で行う。いってみれば、サロンのようなもの。始まりはNHKの白熱教室が流行ったあたりで、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の熟読を目的とした。その後、テーマは次々と変わっていき、もう三年近く続いている。「哲学」というと小難しく感じてしまいがちだけども、じつは僕たちの周りは哲学に満ちている。些細な事柄でも、じっと目を凝らすことで見えてくることがある。カントやハイデガーといった哲人たちの偉業を勉強することも大切かもしれない。でも「考える」ことそのものが哲学なのだと、先生の講義を受けながらいつも思う。

さて、先週日曜日の課題図書は、サン=テグジュペリ『星の王子さま』だった。恥ずかしながら僕は初読である。メルヘンチックなおとぎ話だろうという先入観から、これまで手を伸ばしかねていた。ところがこの物語は、とても深い、哲学的なテーマが潜んでいるという。だからここから先は、ほぼ、講義のリポートである。まず、驚かされたのは『星の王子さま』は子供向けに書かれたものではないということだ。それは序文からも明らかで、サン=テグジュペリはここではっきりと「レオン・ヴェルトに」と明記している。レオン・ヴェルトという人物は、サン=テグジュペリの〈この世で一番の〉親友だった。『星の王子さま』が書かれたのは1943年のことで、ユダヤ人であるレオン・ヴェルトは当時、ナチの迫害から逃れてフランスに隠れ住んでいたという。

そう考えると、『星の王子さま』には多くの暗喩が隠されていることがわかる。例えば冒頭の「象を飲んだ大蛇の話」に出てくる「六か月」というキーワード。大蛇は〈六か月のあいだ眠って、えものを消化していきます〉という記述は、六か月ごとに侵攻を拡大していったナチス、イタリアのファシズム政権の動きと呼応する。あるいは、「バオバブの木」。怠け者が住んでいた星では、三本のバオバブの木を放置していたためにバラバラとなったとある。この三本のバオバブは、ドイツ、イタリア、日本を指すと読める。こうした類の読み解きがこの物語には多く散りばめられていて、研究書や解説書もたくさん出ているらしい。

結論めいたことを書けば、サン=テグジュペリはこの物語で「個と普遍」との違いを書いた。王子の星の薔薇と地球の薔薇とは、一見、同じように見える。けれども王子の薔薇は、世界にたった一つの大切な薔薇であり、往々にして「いちばんたいせつなことは、目に見えない」。砂漠が美しいのは、「どこかに井戸を、ひとつかくしているから」なのだが、僕たちは、しばしば目先のこと、表面的なことに囚われてしまい、そこに隠れているものの美しさに気づかない。

「あの地平線 輝くのは どこかにきみを かくしているから」と歌に書いたのは宮崎駿で、彼は一番影響を受けた作家としてサン=テグジュペリの名を挙げている。「ジブリ」というのは、サハラ砂漠に吹く「熱風」のことだ。サハラ砂漠は、実際にサン=テグジュペリが不時着し、生死の境をさまよった場所であり、『星の王子さま』の舞台。当然のことながら、ジブリ発行の雑誌「熱風」のタイトルの由来もここからきている。さらに宮崎は、サン=テグジュペリの『人間の土地』(新潮文庫)に、「空のいけにえ」という解説を寄せている。「人間のやることは凶暴すぎる」という激しい一文から始まるこの文章は、大空と人間との蜜月がほんの一瞬であったことを指摘する。かつて、サン=テグジュペリが従事した郵便飛行士という仕事が、英雄視された時代があった。宮崎作品に通底する「大空への憧れ」は、その一瞬の時代を写し取ったものだ。

と同時に、宮崎の中には「サン=テグジュペリの作品や、同時代のパイロット達が好きになればなる程、飛行機の歴史そのものを冷静に捉えなおしたい、と僕は考えるようになった。飛行機好きのひ弱な少年だった自分にとって、その動機に、未分化な強さと速さへの欲求があった事を思うと、空のロマンとか、大空の征服などという言葉ではごまかしたくない人間のやりきれなさも、飛行機の歴史の中に見てしまうのだ」という思いがあった。その「やきりれなさ」に真正面から取り組んだのが『風立ちぬ』であったろうことは、想像に難くない。