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朝井リョウ『世界地図の下書き』・羽海野チカ『3月のライオン』

先週紹介したシエラレオネの少女の悲劇のように、たいていの子どもの不幸は大人のエゴに端を発する。もちろんその不幸は、遠いアフリカの国の少女ばかりに訪れるわけではない。僕たちの身近にもたくさん溢れているけれども、見て見ぬふりをしているだけだ。ウチはウチのことで手いっぱい。よその子どものことなど気にかけてはいられない。「核家族化」や「地域社会の崩壊」といった言葉が叫ばれて久しいけれど、それを言い訳にして、僕たちは、社会から零れ落ちてしまったしまった子どもたちから目を背けている。

朝井リョウの『世界地図の下書き』は、児童養護施設で暮らす子どもたちを主人公にしている。スタジオジブリの作画監督である近藤勝也の装画に惹かれて手に取った。朝井の作品を読むのはこれが初めて。これまでは24歳という年齢を意識してしまって、遠ざけていた。早い話が「読まず嫌い」だったというわけである。けれども『世界地図の下書き』を読んで、その印象は変わった。ずいぶんと筆がたつ。子どもの目線や気持ちをていねいにすくい取っていて、しばしばその描写力に驚かされた。自分に引き寄せて考えてしまい、あのときの我が子への言葉は、親のエゴでしかなかったのかと気づかされた場面もある。

この物語の子どもたちは、「孤独」と向き合い、養護施設の中で「疑似家族」として身を寄せ合いながら〈自分のいない九十九.九九九%のところで、宇宙も世界もまるごと動いているのだ〉と知る。それが世界地図を描くための一歩だと、作者は告げている。世界を知るためには、自分のいない九十九.九九九%を知らなければならない。それはつまり、自分以外の人間を知ることであり、自分以外の人間の気持ちを想像することである。他者の気持ちを抱え込んでしまうことは、とてもしんどい。けれどもその行為が、やがては確実に自分たちの未来を拓く。だから、夢破れて遠い地へ去ってしまう女の子のために「願いとばし」を復活させようと奔走する。いじめに走るクラスメイトよりも、見て見ぬふりを決め込んでいる大人たちよりも、彼らの描く世界地図のほうが、ずっと大きくて、広い。

「身を寄せ合いながら」生きる子どもたちといえば、羽海野チカの『3月のライオン』もそうで、この物語は、天涯孤独な高校生棋士と下町に暮らす三姉妹との交流が主軸となっている。三姉妹もすでに親がなく(菓子店を営む祖父と暮らしている)、長女は昼間、祖父の店を手伝いながら、夜は銀座の叔母の店にも立つ。次女は中学生で、クラスでいじめにあっている。三女はまだ幼稚園児。そこに主人公の桐山零が転がり込んでくるところから、物語は始まる。これもまた「疑似家族」の物語だ。

彼らの否応もない「孤独」が、ひりひりとこちらに迫る場面の多いマンガだけれども、それでも全体を覆うトーンが明るく感じられるのは、彼らがまるで子どものように描かれるから。棋界の住人たちも同様で、ライバルの二海堂や、兄弟子の島田、神宮寺会長など、いかにも子どものように純真爛漫としている。頂点に立つ宗谷冬司などは、その最たる例で、彼は子ども時代からほとんど容貌に変化がない。棋界という場所が、実際にどういうところなのかは知らないけれども、このマンガで描かれる棋士たちは、往々にして孤独で、それでいて強く他者を求めている。第9巻では、宗谷と長年のライバルである土橋との対局が描かれる。その対局の途中で、両者が思わず笑ってしまったというエピソードが出てきて、それが孤独と他者とのつながりの双方を追い求める棋士の心根を描いているようで印象深い。棋士にとっては、将棋こそが〈自分のいない九十九.九九九%〉を知るすべなのだろう。