すべての好奇心をレビューする――「ホンスミ!」

中国と 茶碗と 日本と

タイトルは難しい。読み終えればそういう話かと納得するのだが。どうして中国と日本の茶碗の文化は違いが出来たのかという話である。国宝の茶碗は中国製が多い。それでは本国ではもっと優れた作品が残っているのか。ところが日本で評価されるタイプの優品は中国に残っていないという。単純にいえばそれぞれの国の文化を含めた歴史の違いということになるのだが。茶碗は中国では伝統的に国家による官製窯の高級品、茶の流行による文化人の好み、庶民の日常雑器という三層構造があった。しかし日本では茶碗は茶人による鑑賞される芸術品という位置づけだった。中国では茶の入れ方の変化に伴い茶碗の評価に変遷があった。日本では中国製品のありがたさとそれへの反発、茶道の思想の変遷による評価の変遷があった。結果、中国と日本では茶碗に対する評価は違うものとなっていった。これはなにも茶碗だけの話ではない。日本における外国文化の受容、独自な発展ということでは同様の話は多くある。ただ、つくづく思うのだが日本史の大部分は中国文化の受容によるところが大きいということである。但し地理的に日本は適当の距離が中国との間にあった。しかも朝鮮のような緩衝地帯もあった。この本は中国から来日した研究者による中国文化と日本文化との比較研究だったから出来たものである。日本人研究者では無理だろう。勿論、日本の陶磁器の研究者から異論があるかもしれない。しかし文化史という視点だから書けた本である。最後に面白い点を書いておく。筆者は日本語を勉強し始めたとき同じ漢字を使用しているのだから簡単に覚えられるだろうと思ったら大きな間違いだったという。話はそのことではない。筆者の漢字の使用法に日本での日常の使用法とは異なる点があって面白かったのだ。ちょうどアメリカ人が使うカタカナ言葉が日本における外来語としてのそれではなく本国における言葉の意味だったりしたら感じる違和感と同じだろう。例えば本文の終わりに「廬山(ろざん)の真面目」という言葉が使われている。通常はマジメと読む「真面目」はここではシンメンモクと読む。そして廬山の真面目という熟語は「大きく複雑で測り知れないことのたとえ」だそうだ。シンメンモクという読みは聞いたことがあったが意味は知らなかった。そして漢字を日本語のマジメの表記に使用する日本人の「借用と創造」(著者の言葉)に思いを馳せてしまった。